目次

#. RPGは面白いのか?

RPGの面白さの根っことはどのようなものなのかを考えてみると、次のよ うな要素が有るのではないかと思う。

もちろん、これがすべてではないかもしない。とりあえず、以下ではこれ らのそれぞれについて考えてみたいと思う。

また、この順序には何の意味も無い。単に思いついた順番にすぎない。

#.#. テーブル・トークの面白さ

--- 気の合う仲間でダベるのは楽しい ---

テーブル・トークの面白さはわざわざ言うまでもない。「気の合う仲間で ダベるのは楽しい」という一言で終りである。

しかし、このことに関連して、最近思うことが有るのだ。どうもセッショ ンの有りかたが変ってきているような気がするのである。つまり、「ダベる」 ことにより重点が置かれてきているような気がするのだ。もちろん、TRPGは会 話によってセッションが進展していく遊びであるから、会話無くしてセッショ ンは成立しない。しかし、これこそがもしかしたら問題ではないのだろうか?

ダベるのは楽しい。そして、TRPGは会話無くしては成立しえない。おそら くこれはバランスの問題であるのだと思う。つまり、セッションに対する会話 と、セッションに関係無い会話のバランスである。

人間は、あまり長時間集中を維持できないのだそうだ。大学受験の時に読 んだのであろう本の記憶を思い出すと、そこには確か「人間が本当に1つの事 に集中できるのは20分位が限界」ということが書いて有ったように思う。もち ろんこれは、「本当に集中」する場合であるから、言わば数学の問題を解くよ うな場合と考えるべきである。しかし、これがRPGにも関連してくるのである。 つまり、「長時間セッションは実りが少ないのではないか?」という事である。

人間の私自身、GMをやるときには、だいたい3時間程度で終るように考え ている。実際、例えば6時間も続けてやるのと比べるとシナリオの内容的には かなり単純なものにならざるをえない。しかし、遊んでいるときの気持として は、6時間も続けてやるよりもかなり密度が高いような気がする。

で、結局何が言いたいのかと言うと、「仲間とダベる楽しみも、RPGの楽 しみの1つであることは確か」であるということ。ただ、私個人としては、 「確かに仲間でダベるのは楽しいけど、とりあえずRPGのセッションの時には ダベるのは置いといて、RPGにもうちっと集中しよう。」ということ。だって、 RPGを遊ぶためにわざわざ集まってるんだから、「あぁ、RPGをした!」と思え るような時間を過ごしたいじゃない。それと、「やはり集中を維持するために はあまり長時間のセッションは向かないのではないか? なぜなら、人間は生 理的に長時間の集中ができないから」ということを言いたい。

#.#. パズル・ゲームの面白さ

--- 考えるのは楽しい ---

パズルとゲームというのは違うのだという話もあるけど、とりあえずここ では気にしないでください。ちょっとそこまで含めてはまとめられていないも ので。

えと、パズルっていうのは何だかんだいっても皆、嫌いじゃないと思う。 それはつまり、人間という動物は頭を使うのが好きなんだと思う。あるいは、 何かをやりとげたときの快感が目的なのかもしれないけど。

そういう面の楽しさもRPGには有ると思う。例えばダンジョン探索だって、 GMの陰湿なトラップをくぐり抜け、目的とする場所へ辿りついたとか、大ボス を倒したとか、宝物を手に入れたときなんかは結構うれしい。それはやはりGM の作ったパズルを解いたとか、あるいは目的を達成したことによる快感なのだ と思う。

あと、これに加えて良いと思うのが、「戦略・戦術性の面白さ」だ。戦略 というのは、ここでは戦闘 (その他、いろいろな形での対決) にいくまでの持っ て行き方や準備なんかを考えている。戦術というのは、戦闘 (その他、いろい ろな形での対決) での行動のしかただ。

#.#. 鑑賞型の娯楽の面白さ

--- 見るのも楽しい ---

映画とか小説とかを指して「鑑賞型の娯楽」と言っています。それらを見 たり読んだりすることで、いわば擬似的な体験をするとか、いろいろと想像す るとかという楽しみもやはり有ると思います。

RPGにおいては、どうもこの鑑賞型の娯楽という面がいまいちはっきり認 識されていないように思います。しかし、例えばGMの描写とか、あるいは他の プレイヤーの行動とかを聞いている時、そこにはあきらかに鑑賞が有るでしょ う。さらに言えば、自分自身の行動にしても鑑賞できるわけです。

例えば、一人のプレイヤーが"PCにとらせる行動"によって一気に場がシラ けるという状況が有ります。これはつまり、他のプレイヤー達はその行動を鑑 賞していたということの証拠ではないでしょうか?

#.#. 演劇性の面白さ

--- 自分が動くのも楽しい ---

RPGは結局自分から動かなければ何もできません。演じるとかなんとかで なくとも、自分の分身が行動するという点において演劇というか、あるいは行 動の面白さが有ると思います。

セッション中に非常に無口な人が問題になるのは、1つはGM側からの要求 に起因すると思いますが、それだけでなくプレイヤー側からもそういう声が聞 こえるということは先に言った鑑賞型の問題が関連するかもしれませんが、そ の問題を指摘する人達は演劇とかあるいは行動の面白さを知っているからでは ないでしょうか?

あるいは、単に参加することの面白さと言っても良いかもしれません。こ れは例えば、何かを言うとか、ダイスを振るとかということの面白さと言って も良いでしょう。

また、これは次の「ヒーローであることの」と関連するかもしれませんが、 戦闘を行なうことの楽しさも、この参加することの面白さに含めて良いかもし れません。

さらに言うなら、キャラクター・プレイもここに含めて良いかもしれませ んね。

#.#. ヒーローであることの面白さ

--- 現実からの逃避 --

どのような形であれ、RPGにおけるPCは特殊な人達です。自分が特殊な、 あるいは特別な人間であると思えることは非常に気持の良いものです。特殊と か特別とは言っても、能力が優れているとか特殊な能力を持っていることだけ を意味するわけではありません。例えば、世界や社会の状況を一変させること ができる状況にいるとか、あるいは逆に世界を破壊から守ることができる状況 にいるとか、あるいはもっと小さなことがらですが、誰からか必要とされてい るなどのことを考えています。

現実世界において、上に挙げた最後のことでさえ実感している人がどれほ どいるでしょうか?しかし、RPGにおいては、そのような特殊な人間に擬似的 にではあってもなれるのです。この魅力を否定するつもりはまったくありませ ん。

しかし、最近思うことが有ります。「逃避」という言葉はあまり良い言葉 ではないけれど、最近のプレイヤーを見ているとそう思えないこともないので、 この言葉を使います。

実際に「逃避」であるかどうかはともかくとして、昔から英雄物語という のは広く親しまれてきた物語の形態でしょう。これは結局、それら英雄に自分 を投射し、物語の中で語られる英雄の冒険を擬似的に体験することの面白さと いうものが有るのだと思います。例えば「仮面ライダーごっこ」なんかはもろ にそういう側面が出ている遊びでしょう。

また、ヒーローと言うのとは違いますが、若干関連が有ると思われるので ここに書いておきたいことが有ります。それは、「優位性」という事柄です。 これはPCを考えてみれば「異人」などと関連するのですが、ここではプレイヤー の方を考えているので別の視点が現われます。これは、様々な表現方式を取っ て現われています。例えば、パーティーをひっぱるような行動として現われる でしょう。つまり、セッション内において、パーティー内におけるリーダーと してふるまうような場合です。これはほぼ「ヒーロー性」という視点からも理 解できるでしょう。また、他の表現方式も有ります。それは、私の知人(ツル ギジ氏: 今どこに居るの?)が言うところの「メガ・ダンパー」に類する方法で す。つまり、ルールや世界など知識を豊富に持つことで、セッションもしくは グループ内において主導権を握ろうとするというものです。

#.#. んで、結局RPGの面白さとは何なんだ?

ちょっと考えただけでも上のように何種類もの面白さの要素がRPGにはつ まっています。それらの要素1つづつでも充分に楽しいのだから、それらがう まくバランスがとれた状態で提供されれば、おそらくこれほど面白い遊びは無 いでしょう。

ただ逆に、これだけ多くの要素が有るということは人によってどの要素に 重点を置くかという点で、好みがはっきりと分かれるのではないかと思います。 おそらく、例えば「演劇性の面白さ」を重視する人と、「パズル・ゲームの面 白さ」を重視する人では、RPGのとらえ方自体がかなり違うでしょう。すると、 まぁセッションに参加したプレイヤーがそれぞれ異なる要素を重視していた場 合でさえ、ちょっと問題になるかもしれません。あるいは、GMとプレイヤーの 好みがズレていた場合などはかなり悲劇的な状況になってしまうかもしれませ ん。

もしかしたら、1つのゲーム・グループに属しているメンバー同士では、 それらの好みはほぼ一致しているのかもしれません。そうでなければ、1つの グループとしてまとまっていられるかどうかちょっと疑問ですから。しかし、 グループ間でのつきあいというものがRPGの場合、いまいち希薄なのは(私がそ う思っているだけかもしれません)、無意識のうちに、プレイヤー自身がそう いうことを感じ取っているからかもしれません。

さて、「地蔵」と呼ばれる参加形態が有ります。おそらく多くの人にとっ て、「地蔵」は謎でしょう。しかし、これは「鑑賞型の楽しみ」に重点を置い ていると考えれば、なんとなく納得が行きます。もちろんそれに加えて「参加 している(と感じる)こと」や、あるいは「臨場感」なんかも影響しているとは 思いますが。