PCって何なんだろう?

PCはプレイヤーに与えられる制約である

RPGの構造って何?】の [ルールの構造]では、 次のように書いていました。

この最初の2つを見る限り、PCは、単にプレイヤーがセッション内世界に 関与するためのチャンネルというか媒体というかそういうものに すぎないように読めるかもしれません。

この「PCはチャンネル (もしくは媒体) である」という方向で 考えると、1つの疑問に行きあたります。 それは、「なぜ PC は Player ではないのか?」ということです。 つまり、セッション内世界に関与するために、自分とは異なる存在を 仮定するのでしょうか? どうせ仮定するのならば、自分がその世界の中に入っているという仮定も 有っても良いでしょう (もちろん、そういうRPGも既に有りますし、またそういう設定で 遊んでいる人達もいることでしょう。 でも、一般的ではありませんね)。

それに、なぜPCは万能ではないのでしょうか? どうせ虚構の中なのですから、PCはかなり万能に近くても良いんじゃないでしょうか? (これまた、長い長いキャンペーンの後に、そこまで辿りつくようなRPGも ありますね。それと、何か1997年の秋か冬あたりに、かなりこれに近いようなものが 出たような気もしますが、ちょっと記憶が不鮮明...)

こう考えてくると、結局のところ player にとっての PC とは、 プレイにおける制約の1つになっているのではないかと思うのです。

RPGにおいては、PCの存在が前提条件であり、しかも非常にうまく埋め込まれて います。 しかも、「人間は万能じゃないでしょ?」という、うまい理由付けも行なわれて います。 このために、PCがplayer にとっての制約になっているとは なかなか感じないかもしれません。

まず PC は player ではないということによって、 player が日常で担う役割とは異なる役割を PC は担わなければならないことから PC をどう動かすか、 あるいはPCとしてどう行動するかの判断が難しくなります。 いや、もっと基礎的なことで言えば、PCの能力と乱数によって player が知りたいことを知ることができない、 やりたいことができないという形で制約となっています。 そして、このやりたいことができないというのは、もちろん PCは万能ではないということに繋がります。

物語指向、あるはナリキリ系の遊びかたをしている場合には、 単にPCに可能なことが制限されているのみでなく、 player は PC ではないという前提から、結局PCがどう考えるか分からない という点において、RPGを遊ぶ制限をより強くしていると言えるでしょう。

正直に言えば、PCが万能であってはゲームとしてRPGが成り立ちません。 そして、もしもPC = player であったならば、現代そしてプレイヤーの 属する社会以外において冒険を行なうことはかなり難しくなるでしょう。 さらに PC = player であったならば、PCを数値的に表現することも 非常に難しくなるでしょう。

んー、なんかもっとうまくまとまるかと思ったけど、 いまいちだなぁ。

PCは常に《異人》である

--なにゆえに、PCは《異人》であるのか-- そもそも、RPGにおけるPCとは、いったい何者なのであろうか? PCの呼ばれ方は、RPGのシステムによって様々である。 例えば「冒険者」、「シャドー・ランナー」、「ストーム・ナイト」等々。 しかし、どのような呼び方をしても、PCの立場という観点から見ると、 あらゆるRPGにおいて共通点が見えてくる。 それは、《異人》であるという点である。

《異人》という概念は、ここでは説明しにくい。 参考文献を挙げてあるので、それを参照して欲しい。 簡単に言ってみると、「我ら」に対する「彼ら」が《異人》である。 また、本来的な意味での異人とは、単純に「我ら」の社会の外部に存在する 「彼ら」であるが、《異人》とはもうすこし意味が狭く、考えることにする。 以下は参考文献とした「異人論序説」においてなされている定義である。

つまり、この定義によれば、「我ら」とは定住者であり、 「彼ら」とは漂泊の民であるということになる。 別の言いかたをするなら、「我ら」とは何らかの「法=秩序」に従って 生活しているものであり、「彼ら」とはそのようなものから離れた 者達であると言えるだろう。 もっとも「彼ら」とは言っても、「我ら」とまったく関係を持たない 連中であればたいして意味を持たない。 見えない「彼ら」など存在しないも同じことなのだから。 問題はたまには「我ら」に近づいてくる「彼ら」であるということだ。 しかし、PCについては、誰が「我ら」であるのかを考えなければならない。

言うまでもなく、NPCが「我ら」でありPCが「彼ら」である。なぜか? これは、RPGの遊びかたの構造からおおざっぱに言えば、 GMの内部が「我ら」であり、GMの外部(つまりPlayer)が「彼ら」ということになる。 これを、より詳しく考えるのならば、GMの内にある「我ら」は何らかの社会を 構成しており(それは村であったり町であっり国であったりする)、 つまりは「縁」もしくは「法=秩序」というものに統制されている社会である。 ここで「法」と言ったが、これは何も法律のみを意味するものではない。 社会的な慣習なども含めた、広い意味での「秩序を作る装置」を意味している。

それに対し「彼ら」たるPCはGMの外部にあり、 それゆえに「我ら」を統制している「縁」もしくは「法=秩序」からは まぬがれている(言ってしまえば、GMの支配範囲外にPC達、つまりはPlayer達は 存在する)。それゆえに、PC達はNPCにとって「彼ら」たりえているのである。

さて、PCが《異人》であるということは何を意味しているのか? PCの社会的認知・社会的な立場ということを考えてみたいと思う。 先の、「PC←→NPC」という対立からも、PCは《異人》と言えるのだが、 それはあまりにもRPGの構造的な部分から発っしているものであるため、 今度はもう少しRPGの世界の中に入って考えてみたいと思う。 早い話が、シナリオにおけるPCの扱われかたを考えてみるということである。

まず、シナリオにおけるPCの扱われかたを考えてみると、 PCはファンタジー世界においては旅人であることが多いように感じる。 またホラー世界においては《異界》に関わってしまった人々である。 その他の世界でも、その存在のしかたは様々であるが、 PCはやはり《異人》としてシナリオに登場しているような気がする。

例えば、ファンタジー世界において、旅人たるPC達は、 行く先々で(?)問題の解決をせまらせる。 もちろん、これにはRPGの構造上の制約によってなされている面もあるのだが、 ちょっと考え方を変えると、「なぜそういう制約の上にRPGは構築されているのか?」 という疑問につきあたる。 あるいは、「現在、多用されている形式のシナリオでは‥‥」と言う話しで終って しまうものかもしれない。しかし、D&Dにおける初期のシナリオは、 主にダンジョン探索のみであり、現在の感覚からすればシナリオとは 呼び難いものかもしれない。しかし、そこにおいてすらすでにPCは 《異界》(ダンジョン)と現世とを行ききする境界的な存在、 つまり《異人》として扱われている。

こう考えてくると、PCが《異人》であることには、以下の2つの 根拠が有るように思えてくる。

RPGの構造上の制約
つまり、GMとPlayerという2種類の参加者がいるために、 必然的にPCは《異人》となってしまう。
物語的なものにおける主人公的な役割を担うための条件
とにかく、何でも好きな小説・映画などを思い浮かべてみれば良い。 その主人公達は、かなりの割合で《異人》であろう。
驚いたことに、RPGはこの2つの根拠の両方に触れてしまっている。 これは何故なのか? なぜPCは《異人》たるべき宿命付けられているのか? 主人公であるために《異人》であるのか? しかし、主人公でありながら 《異人》ではないという、小説・映画の例も有るだろう。純文学における 主人公達は、おそらくは《異人》ばかりではないだろう。 つまり、上記の2つの条件の1つづつを考えたのでは、PCが《異人》たるべく 宿命づけられている(?)根拠としては弱いと感じるのである。 例えば、「RPGの構造上の制約」であれば、「GM無しセッション」という ものを考えられないかと言えば、そんなことはない。 確かにこの制約はかなり強いであろうが、これだけでPCが《異人》である ことの説明はできないのである。 では、《異人》である主人公と《異人》でない主人公との間には どのような差異が有るのだろうか? これについては、まったく分からない。

また、伝承では、社会の中に発生した問題は、 外部の者(つまり《異人》)でなければ解決できないというものが 見られるそうである。また、ライト・ファンタジーには、まさしく 《異界》から現れた英雄、もしくは王族である英雄(赤坂によれば、 王もまた《異人》であるという)が、その世界の破滅を救う というプロットが見られるように思う。 この構造は、先に挙げたファンタジー世界のPCの立場に酷似している。 なぜそのような類似が見られるのか?

またその内に、この続きを考えて書いてみる。


#. PCは主人公か?

最近思っていることなのですがRPGにおけるPCは、 果たしてその物語での 主人公なのでしょうか? これは、YesでありNoでもあると思います。 つまり、 物語によると思うのです。

そもそも、「主人公」とは何なのでしょうか。 1つには、その物語の中でその行動が主に描かれる人物であると言えるでしょう。 いわゆる私小説などではおそらくこの定義だけで主人公を表現できるものと 思います。

また、私小説以外の物語であれば、その物語中において 何らかの偉業を達成する人物という定義も当てはまるものと思います。 偉業と言うとちょっと大袈裟かもしれませんが、 ともかく何かを成し遂げる人物であることは確かだと思います。 これらをまとめて言えば、 主人公とは物語中で何かを成し遂げるための行動を描かれる人物と言えるでしょう。

これらの定義を見るかぎり、シナリオ(あるいはセッション)での主人公は 間違い無くPCだと言えるでしょう。 しかし、ここで忘れてはいけないのは、RPGにおいては、 プレイヤーはPCを通してしかその世界に参加できないため、 PCの周囲で起こっていることしか分からないし、 またGMにもPCの周囲以外で起こっていることを描写する方法は無いということです。 まったく無いわけではありませんが、少なくともPCの周囲で起こっていることに くらべると、その量は非常に少ないものとならざるをえません。 とは言うものの、PC以外の人物も、仮にその人物を中心に描写が可能であるとしたら、 主人公と呼ぶに相応しい行動を取っているのかもしれないのです。

例えば、新しい世界を樹立しようとしている者がいて、 周囲の者(例えば旧世界の実力者)などは、その者の行動を狂気の末の行動だと 考え、PCにその狂った人物の抹殺を依頼してきたとしましょう。

RPGのシナリオとしては、PCの活動を描写するしかありません。 もっとも、最後でのどんでん返し(つまりその新しい世界を樹立しようとしている 者は実は狂ってはおらず、PCへの依頼者側があまりにも腐敗していたなどの 事実をPCが知るというような場合)は有りえますし、 それによってその狂ったと言われる人物を描写することは可能です。 しかし、RPGでは、これまでも言ってきたように、プレイヤーに提示される状況は、 常にPCの周囲の事柄のみです。 そういうRPGの構造的な制約を除いて考えた場合、 その狂ったと言われる人物の側の視点から物語を作ることも可能であることに 注意してください。 その場合、もしかしたらその狂ったと言われている人物は民衆のヒーローである かもしれません。

ここで問題です。 物語として考えた場合、PCとその狂ったと評される人物とどちらが 主人公に相応しいでしょうか。 民衆がこの事件を語り伝えていくとした場合、 腐敗した実力者(アンデッドという意味ではない^^;)の側に立つPCと、 狂ったと評される人物とのどちらを主人公にした物語にするでしょうか?

もちろん、この例はかなり極端な例です。 しかし、これほど極端な場合ではなくとも、同じような問題が存在することに 注意してください。 しかも、これはかなりひねくれた問題です。 なぜならRPGのシナリオを考えた場合、PCの周囲を描写するしか無いからです。 しかし、この文章の最初でも言ったように、私はシナリオを物語ととらえてみるという 考えのもとでこの文章を書いています。 ですから、この問題も考えてみなければならないと考えたのです。

仮に物語の主人公がNPCの場合を考えてみましょう。 これには2種類考えられます。 1つはそのNPCがPCの味方である場合であり、 もう1つはそのNPCがPCの敵である場合です。 NPCがPCの味方である場合、シナリオ上では特に問題は出てきません。 なぜなら、そのNPCの行動はPCの周囲のできごととして 充分に描写できるからです。 もっとも、この場合、PCは主人公のNPCの使いっぱしりのような形になってしまい、 プレイヤーには不満が残る可能性も無いわけではありません。

ただし、例えば、1シナリオでは主人公はPCであるが、 キャンペーンとして見た場合(言わば、一種の歴史としてとらえた場合)には 主人公はそのNPCと認識できるという、2重構造的やりかたは有り得ると思います。 例えば、独立戦争のリーダーを歴史における主人公とし、 PCは遊撃隊として、キャンペーン内のそれぞれのセッションにおける主人公となる という形が、この主人公の2重構造を実現する1つの方法でしょう。

では、NPCがPCの敵である場合はどうでしょうか。 この場合、主人公のNPCについては、その大きな行動しか描写できないことになります。 おそらくは主人公の描写として必要な、内面に関係するような描写は 不可能もしくは非常に困難になります。

ただし、こちらについても上で言ったような、主人公の2重構造は 導入できるものと思います。 ただ、上で述べた場合よりも、主人公のNPCについての描写は どうしても少なくならざるをえなくなりますが。

いずれにせよ、上記のようなキャンペーンにおける主人公の 2重構造を導入しないかぎり、 私にはプレイヤーを主人公としない シナリオというのは無理ではないかと思います。 何かほかの方法をお持ちの方は、ぜひお教え願います。

しかし、物語の主人公とシナリオの主人公を別にすることは不可能ではないことが 分かってもらえたと思います。 つまり、必ずしもPCは物語の主人公ではないのです。

PCはヒーローなのか?

正直な話、先の『PCは常に《異人》である』という前提に立つならば、 物語の中では、PCはヒーローであると言えるのだろう。ただし、これには 重大な問題が有る。

外部の者(《異人》)が、共同体の問題を、ケガレを清めるという意味で 解決するかぎり、その共同体の中の人間にとっては《異人》はやはりヒーローで あろう。しかし、彼ら《異人》はマージナル・マン(境界人)であり、 あるいは漂泊の民である。我々は、彼らヒーローの格好良い部分にしか 目が行かないが、はたして彼ら《異人》は、我々の言う意味でのヒーローなの だろうか?

ここでサイバー・パンクRPGのPCが示唆を与えてくれる。 彼らを、"On The Edge"という言葉で表現しているRPGが有る。 この"Edge"という言葉が、具体的に何を意味しているかは分からないが、 ここでは《異人》という意味に引き寄せて考えられないだろうか? 《異人》はマージナル・マン(境界人)であり、共同体、つまり法=秩序の 世界と混沌とした世界との境界に位置する者達である。 ここから、"On The Edge"という言葉の様々な意味を引き出せないだろうか?

さて、Cyber-Punk RPGを例に挙げたが、この問題はCyber-Punk RPGのみ の問題ではない。もちろん、例外を認めない訳ではないが、非常に多くのRPGに おけるPCが《異人》として扱われているという前提で、私はこれを書いている。

さて、「多くのヒーローは《異人》であった」と言えるならば、 その逆はどうだろうか? 「《異人》ならばヒーローなのか?」という問題である。 これは明らかに偽である。例えば、山人、漂泊の芸人などを考えれば良い。 彼らは一般的にヒーローではない。では、何が《異人》をヒーローにするのか? あるいは逆に何がヒーローを《異人》にしてしまうのだろうか?

1つは、《異人》であるがためにヒーローの候補者となっていると 言えよう。これは逆に言えば、ヒーローの候補者であると言うことは、 その時点で《異人》の候補者でも有ると言える。そして、ヒーローたるべき 行ないをしたらどうなるだろうか? その行ないのために《異人》はヒーローと なり、また共同体内にいた一般人がその行ないをすればそれにより 一般人と区別され、つまり《異人》と見なされ、かつまたその行ないにより ヒーローとも見なれるだろう。つまり、一般人にとっての《異人》とは、 ともかく『あっちの世界の人』であり、それはさまざまな要因によって 判断される。例えば、精神病でも『あっちの世界の人』と判断されるかもしれない。 あるいは非常に優れた知性によっても『あっちの世界の人』と判断されるかも しれない。身体的な欠陥や過剰によっても『あっちの世界の人』と判断される だろう。もちろん、それぞれの場合によって『あっちの世界』が指し示すものは 異なるかもしれない。しかしいわゆる『我々の世界』とは別のところを指している のは共通しており、そして『あっちの世界』の住人である彼らが『我々の世界』に 存在していることになってしまう。そして、彼らは《異人》となってしまうのだ。

結局PCは《異人》というヒーロー予備軍であり、ヒーローではない。 もちろん、「PC=ヒーロー」と言っているRPGではどうか知らないが、 それであってもなお、PCはヒーロー予備軍のメンバーであると思う。 実際にヒーローとなるかどうかは、その行ないが決定するのだから。

そしてヒーローとは何なのかという話になる

ヒーローとは何なのか? これは非常に難しい問題である。 少なくとも私にとっては。ここでは特に強烈なヒーローに注目して 考えてみたい。例えばアメ・コミの、それもスーパー・ヒーロー達である。

彼らを特徴付けるものは、おそらくその強力な能力だろう。 空を飛び、怪光線を発射し....ということである。おそらくそれだけで 充分に《異人》であろう。