シナリオにおける物語性

物語性が強くなってきた

RPGの遊び方というのは、以前はその 一面としてパズルゲーム的要素(ダンジョン探索、トラップ回避/解除など)が かなり強く打ち出されていたと思う(これは、グループにもよるだろうが、 私個人の経験からの話しである)。 もちろん、現在もそのような面がまったく無くなっている訳ではないが、 少なくともその傾向はかなり弱くなってきているように思う。

その反面強くなってきているのが、物語志向であるように思う。 これは、先のパズルゲーム的要素が強い頃から、その傾向は見えていたように思う。 当時話題になったこととして、「うちのGMは世界/背景設定に凝って困ります」 というものが有る。 現在ではこのような話を聞かないが、これはRPGのプレイヤーが全般的に 物語志向を容認するようになったからではないだろうか。 つまり、物語において背景世界はある意味で必須と言えるだろうからである。 と言うのも、物語志向になれば、どうしてもその世界の住人と PCとの関わり合いが増えるだろう。 これはつまり、情報を得る場合にしてもNPCと話し合う場面が必要になる という程度のことも思って良いだろう。 その関わり合いを表現したりいろいろな面で、 どうしても背景世界が必要になってくるからである。 例えば、その背景世界は単純に「ファンタジーの世界」というだけかもしれない。 だが、住人との関わり合いが増えてくる場合、 その世界の住人の暮らしがどうだとか、 社会はどうだとかがそれなりにはっきりしていなければ、 住人との関わりもうまく表現できないだろう。

物語性ってなんね?

では、物語志向とはどういうものを指すのだろう?

様々な定義が可能とは思うが、ここではとりあえず次のようなものを 考えてみる。

『セッションが、昔なつかしい「君達はダンジョンの前にいる」から 始まらない』
これはつまり、導入が有り云々ということである。 起承転結が有るかどうかは分からないが、 おそらく起承結くらいは存在するだろう。
『劇的効果を狙った演出がなされている』
例えば、山賊に美少女(美少年)が襲われているという程度も含めましょう。

ここで、最初の条件だけであれば、 「導入は有るけど、その後は『君達はダンジョンの前にいる』から始まるのと 一緒」というシナリオも考えられるでしょう。 そこで2つめの条件を付け足しているわけです。 先に言った「背景世界」については、ここでは触れていません。 物語志向に背景世界は必要ですが、 背景世界が有るからと言って物語志向であるとは言えないと思うからです。 早い話、詳細な背景世界が有っても、「君達はダンジョンの前にいる」から 始まるシナリオはできるということです。

これはあくまで物語志向というものを考えた場合であり、 「物語とは何か」についてのものではない。 私にとって物語とは、 「(1)イベントの並びであり、 (2)それらのイベントが何らかの必然性を持って並んでおり、 (3)さらに何がしかの劇的効果が与えられているもの」とでもなるだろう。 これは、ダンジョン探索であっても当てはまるものでしかない。

物語性は何のために?

で、物語志向(あるいはシナリオの物語性)とは何を目指しているものなの だろうか?

まず第一に、歴史的背景から言えば、ダンジョン探索に飽きて、 シティー・アドベンチャーをやり始めたところから物語志向は始まっていると 思う。 つまり、少なくともまずPCの活動の場が大きく広がったということだ。 同時に、それまでのダンジョン探索的な行動だけでは、 与えられたシナリオのクリアが難しいということにもなるだろう。 ダンジョン内においては、行なう行動は必然的に制限される。 しかし、いざダンジョンから出てしまえば、 そこは我々が現実に暮らしているのと同様(というと語弊が有るだろうか)、 少なくともダンジョン内よりははるかに多くの選択肢が行動に対して 与えられることになるからである。 もっとも、実際にどれほど異なるものかは、どうもはっきりしない。 イメージとしてはかなり異なるはずであるとは思えるものの、 実際に考えてみるとこれが意外に違わないように思えるのだ。 行動の幅というよりも、行動のしかたと言うべきかもしれない。 つまり、ダンジョン内と外では行動の規約というか規範が 異なっているということである。

さて、ここが問題である。 なぜダンジョン探索から物語的シナリオへと変化が起きたのだろうか? シティー・アドベンチャーになったとしても、 それが物語的なものになっていく必然性は無いように思えるのだ。 つまり、極端な話、依頼を街で受け、次の場面では例えば山賊の出る 山のなかを探索するなどという、 言わば外に出たダンジョン探索とでも呼べるようなシナリオだって存在する わけである。 だから、「ダンジョンの外に出たから、物語性が強くなった」と 簡単に言ってしまうわけにはいかないような気がするのだ。 これには様々な説明ができるだろう。 しかし、私としては次の考えを持っている。 つまり、 「人は言わば物語装置とでも呼べるような機能を生得のものとして持っている」。 そこで、行動規範が無くなった時(すくなくともそれ以前の規範が役に立たなく なった時)、その物語装置に頼ったのではないか、 そして、より現実に近い世界(つまりダンジョンの外)を得たことにより、 現実の経験や、その他のストーリー・メディアにおいて経験した 筋などを投影することになる。 もちろん、それらの経験もまた「物語装置」を通して解釈されたものであるのだが。 この「物語装置」ですが、 私としては「世界を認識するための一種のテンプレート」的なものと 考えています。 もしくはテンプレート的なものを当てはめようとする働きというべきかも しれません。 もっとも、そのテンプレートを作るのもやはり「物語装置」の働き、 もしくは生得的だと思うのですが。 例えば、Aという現象に続いてBという現象が起きた場合、 私達人間は、Aという現象とBという現象の間には何らかの 因果関係があると想像するでしょう。 その働きがすでに「物語装置」の働きだと思うのです。 つまり、何らかのイベント列を理解するために物語を作るのです。 で、そのような「物語装置」をベースにおいた心理的な働きの結果、 シナリオの物語性が強くなったのではないかと考えている。 これはプレイヤーからの投影と、GMからの投影が有る。 おそらくは両者からの投影がなされたために、 物語志向が一般的になったものと思われる。

もちろん、この「物語装置」はダンジョン探索においても使われていたはずである。 例えば、「最後の敵がいる」とか、「奥に行くほど、敵が強くなる」などの 想定である。 しかし、ダンジョン探索においては、その行動はかなり制限されているため、 シナリオの物語性もまた、それほど高品質化する必要もなかった (もしくは高品質化できなかった)。 それに対しダンジョンから外に出た、 もしくはダンジョンよりも広い世界を手に入れたことにより、 シナリオ(もしくはシナリオに付随する設定)の幅は広がったと思われる。

この「物語装置」というのは現実に想定している人もおり、 研究されている。 例えば bit '95/9月号を読んでいただきたい。 また、プロップも「物語装置」とでも言うべきものを想定していたふしが有る ([形態]を参照)。 さらに、ユングの言う《元型》などは、ユング自身がどうとらえていたかは 分からないが、「物語装置」にかなり深く関連しているものと思われる。 ただ、いずれに関しても勉強不足であるため、勘違いしているかもしれない。

この《機能》や《元型》については、また後で触れていきたいと思います。

さて、この節のタイトルとなっている「物語性は何のために?」ですが、 多少答えというか、答案の1つが浮かびあがってきました。 それは、「物語装置」によって必然的に付加されてしまうものである というものです。 もちろん、一回それを得てしまえば、今度は高度化が要求として 出てくるでしょう。 また、それとともに、ダンジョンの外のイベントは、 おそらくはダンジョンの中のイベントよりも 実生活などから得られた経験を投影しやすいものと思います。 その結果として、物語志向のシナリオがより多くの人に受け入れられるようになり、 また物語志向のシナリオが一般的になったのだと思うのです。

しかしこれは、結局最初の疑問の大半を「物語装置」に おっかぶせてしまったにすぎません。 つまり、そもそも「なぜダンジョンから出たのか?」という疑問が残っているのです。 歴史的に考えると、D&Dの出た1年か2年後(位だと思ったけどなぁ)に RuneQuest, Travellerと立て続けに(そうだったような気がするのだが、 どうも資料が部屋の中で埋もれていて見つからない)出版されました。 これらは、いずれも少なくとも明示的なダンジョン探索のみを行なうための システムではありませんでした。 つまり、シティー・アドベンチャーをかなり考慮したものになっていたのです。 すると(私の記憶が正しいとして)、D&Dが出てから1年ほどの間に、 すでにダンジョンの外に出たいという欲求を持ち、 さらにはそのための行動が行なわれていたわけです。 これは何故なのかと考えてみても、 「これぞ!」という答えは見つかりません。 結局「もっと広い世界に出たかったから」としか 答えられないのではないでしょうか? そこには、「外に出ればもっと面白くなる」という思いもあったでしょうし、 あるいは逆に「狭いとこにとじこめられているのはいや」という程度の思いも あったでしょう。

これから物語志向によるシナリオがどのような発展というか変化を見せて いくのかは分かりません。 ただ、私が予想しているのは、 より物語の元型的な方向、つまりは神話などですが、 そちらに歩み寄るのではないかと思っています。 これまでは、言わば個人個人の経験から得られた「テンプレート」を 主に投影していたと思うのですが、 神話的つまりは汎人類的な「テンプレート」に近づくと思うのです。 この「汎人類的なテンプレート」というものがどういうものかと 問われると、まだうまく説明ができないのですが、 ユングの言う《元型》が汎人類的なものであり、 またプロップの言う《機能》もまたそうであるのならば (そして、おそらくそうであろうと思います)、 彼らが想定したような物語の元型集とも言うべきものが我々の中に有る (もしくは文化の中にかもしれません)わけです。 で、そのような物語の元型集(「汎人類的なテンプレート」)に近づくことに よって、どのような現象が起きてくるのか...それは何とも言えないのですが... もっとも、神話的なテンプレートとは言っても、 シナリオやRPGのジャンル自体が神話的であるとは限りません。 例えば、SF小説が良い例でしょう。 SF小説の中に、いかに神話的なテンプレートが含まれているかは、 読んでもらえば分かると思います(対照作業という面倒なことは 私はやらない^^; もちろん本当ならやるべき作業ですが、 この文章は趣味で書いているので、ここではとりあえず「そう思える」という 程度のこともズンズン書いています。悪しからず^^;)。


RPGのシナリオと《元型》

ウラジミール・プロップのファンクションと、 ユング心理学における《元型》を知ったとき、 その両者の間に対応なり、もしくは何らかの関係が有るのではないかと 思いました。

ユング心理学において「おとぎ話」はユング自身から研究されていました。 まだ、充分な資料にあたってないので、プロップとユングの両者の研究に 何らかの関係が有ったのか、あるいは少なくともいずれかが他方の研究を 知っていたかどうかも分かりません。 いずれ、充分な資料にあたれば、それもはっきりするでしょう。

さてユング心理学における《元型》は、以下のものが上げられています。

ペルソナ(Persona)
外界に対する根本的態度。ちょっと《元型》とは違うけどね。

自己(self)。
ちょっと《元型》とは違うけどね。

自我(self)。
ちょっと《元型》とは違うけどね。

影(Shadow)
その個人の意識によって生きられなかった反面、 その個人が受容しがたいとしている心的内容であり、 それは文字どおり、その人の暗い影の部分をなしている。 夢においては同性の者として現われることが多い。

アニマ/アニムス(Anima/Animus)
内的世界に対する根本的態度。 夢においては異性の者として現われることが多い。

太母(Great Mother)
生みだすものとしての母、土などの地母神のイメージ。 また、同様に死の神。 両者は多くの神話などで1つのイメージとして描かれていることが多い。

老賢者(Wise Old Man),
始源児(老賢者が子供の姿で出てくることも有る。ただしその場合、 未来に対する可能性なども表わしている)

トリック・スター(Trick Star)
ちょっと説明が難しいですが、いたずら者という感じです。 象徴としては、子供であったり、白痴であったりすることが有るようです。 新しい世界にジャンプするには、古い世界や価値観を破壊する 必要が有る場合があります。 その方法が、例えばアニマ/アニムスであれば 自己との統合によって新しい視点を得るということになりますが、 トリック・スターでは古い世界や価値観の破壊と新しい世界や価値観の 創造を行なうことになります。 それぞれがどういうものかというと、私にはまだうまく説明できません。 もっと勉強してうまく説明できるようになったら、このあたりを 書き変えるでしょう。

で、これがどうしてプロップのファンクションと関連するのかという ことですが、私が最初に感じたのは、「援助者と老賢者」の類似にすぎません。 しかし、ちょっと調べてみると、もしかしたらもっと深く関係しているのではないか と思われてくるのです。 例えば、次のような例を考えてみてください。 なお次の例は、浅薄な私の知識に基づいて、 《元型》とプロップの《機能》には ちゃんと関連する点が有りそうだということを言いたいがために、 非常におおざっぱで、かつユング心理学から見れば大きな誤りを含んできるかも しれません。

主人公は、悪者にとらわれたお姫さまを助けだす。 それまでに、主人公は怪物と闘うのだが、怪物はてごわい。 思案していると、魔法使いがどこからともなく現われ、 魔法の武器を渡してくれる。 そして主人公は怪物を倒し、悪者を倒し、お姫さまを助けだした。
ここで、
  • 主人公 = 自我、自己(?)。
  • 悪者 = 影(普遍的影)
  • 怪物 = 太母(否定的側面)
  • 魔法使い = 老賢者, 太母(肯定的側面), 始源児
  • お姫さま = アニマ
ものすごく無理が有るかもしれませんが、 上の例に登場する人物はこのような《元型》に 対応させることも不可能ではないと思います。

なお、上の例では、言わば夢を見た人の無意識における《元型》との対応の ように見えます。 例えば、主人公はPCと考え、かつPCはプレイヤーが演じているということから、 主人公はプレイヤーのペルソナと考えることもできます。 その場合、他のものに対してはどういうことになるのか分かりません。 しかし、それぞれのプレイヤーが、登場人物に投影をすると考えれば、 とりあえず、上のような対応も考えられると思います。

もっとも、この例は「アニマ」ということを言っていることからもわかるように、 基本的に男性のモデルで考えています。 女性なら、「アニマ」を「アニムス」に置き換えるだけで良いのかというと、 おそらくそうはいかないはずです。 それは、アニマとアニムスの表わしている内容というか性向が違うわけで、 男性においてはアニムスが全面に出て男性らしさを形づくり、言わば 自我(自己?)に統合されているものの、アニマは抑圧されているために無意識との 関連が強くなります。 女性においてはその逆であるということだと思うのですが、 そうした場合、アニマとアニムスの質的な違いから、 上記のような例にはならないと考えられます。 そこで私は、女性の作るRPGシナリオはどのようなものになるのか という点に興味が有ります。 根本的に、男性が作るシナリオと違うのか、 それとも同じなのか? このような心理学的な視点から非常に興味が有ります。

だからどうなのかと言われると困ります。 まだ、「どうやら関係が有るだろう」と思い至ったところで、 ユング心理学についても、プロップのファンクションについても 勉強中だからです。 いずれ、考察がもっと進んだら、この項を書き改めるなり、 書き加えるなりしたいと思います。 もちろん、プロップのファンクションやユング心理学を研究しておられる方が、 すでにこのような研究をきっちりやっておられるのでしたら、 その文献にあたってみたいと思います。