シナリオって何?

Simulation と RPGにおけるシナリオの違い

RPGにおいては、シナリオが重要な要素となっている。また、あるいは、ゲー ムの世界でシナリオが必要であるということ自体、珍しいとも言えるのではな いか?

RPG以外にシナリオを必要とするゲームと言えばシミュレーション・ゲーム がある。また、RPG自体がシミュレーション・ゲームから生まれて来たことを 考えると、シミュレーション・ゲームにおけるシナリオというものを考えてみ るのも何かの参考になるだろう。

さてシミュレーション・ゲームにおけるシナリオとは、大雑把に言って背 景、初期配置および状況変化(新部隊の到着など)についての設定と言えるだろ う。これをそのままRPGに当てはめてみると、それぞれ背景、初期設定および 場面変化ということになると思う。つまり、こういう概略で考えた場合には、 シミュレーション・ゲームにおけるシナリオも、RPGにおけるシナリオも、そ れが担う役割は同じということになる。ただ違う点を挙げるとしたら、シミュ レーション・ゲームにおけるシナリオは、プレイヤーの行動(RPGではPCの行動 と言うべきか)には影響されないという点であろう。つまり、シミュレーショ ン・ゲームにおける状況変化とは、ゲーム進行のタイムテーブルに組み込まれ たイベントであり、その発生は何ものにも変更を許されない。それに対しRPG における状況変化(場面変化)とは、やはりイベントではあるものの、必ずしも タイムテーブルに組み込まれたものとは限らない。先の名称もそのためにシミュ レーションの場合とは変えてある。つまり、RPGにおけるイベントの多くは、 「どこどこでのイベント」という形で書かれ、それはシーンなどと呼ばれるも のだからである。このシーンの発生順序はPCの行動によって変わることが有る にとどまらず、場合によっては発生しなかったり、あるいはシナリオに組み込 まれていないシーンが発生する場合すら有る

逆に言えば、シミュレーション・ゲームの場合、生起順序が入れ変わった りなどということが起こるほどに、シナリオが細かく記述されていないと言う こともできるだろう。これは、ゲームの抽象度が異なるためであろう。つまり、 一般にシミュレーション・ゲームにおいては、プレイヤーは何らかのグループ を担当する。それに対しRPGでは一般に個人を担当する。となれば、RPGにおい ては個人の行動を考慮に入れねばならず、それはそのままシナリオにおいても シーンと言うようなものを考えないわけにはいかなくなる。それに対しシミュ レーション・ゲームにおいては、個人の行動は一般に考慮外であり、そのため にシーンなどを考える必要が無いわけである。

しかし、だからと言ってシミュレーション・ゲームにおけるシナリオがRPG におけるシナリオよりも単純であるなどということは有りえない。例えば、シ ミュレーション・ゲームのシナリオを一般のユーザーが書くということがそれ ほど行なわれているだろうか? シミュレーション・ゲームのシナリオは、そ れが意味有るものかどうかを別にして考えれば、駒の配置位置や配置する駒の 種類などを考えると非常に多くの可能性が有る。にも関わらず、シナリオ作成 が一般には行なわれていないということは、とりもなおさずシナリオ作成が難 しいということを意味している。これは結局ゲーム・バランスの問題であろう。 つまりシミュレーション・ゲームにおいては、ゲーム・バランスの取れたシナ リオを作ることはかなり難しい作業であるということである(もちろんシミュ レーション・ゲーマーの頭にはシナリオを作るという考えが欠如しているとい う可能性も0ではないが.....)。

それに対しRPGにおいては、一般ユーザーによるシナリオ作成が一般的になっ ている。この一点だけを考えると、シナリオ作成はRPGの方が易いとさえ言え そうである。まぁその話はとりあえず置いておくとして、シミュレーション・ ゲームとRPGのシナリオの最大の差異は結局のところ、この「ユーザーが作る (ことが一般的)かどうか」という一点に絞られるのではないかと思う。

なぜRPGでは一般ユーザーがシナリオを作るのか? もしくは作れるのか?

では、そもそもなぜRPGでは一般ユーザーによるシナリオ作成が行なわれる ようになったのだろうか? また、はたしてRPGの創始者達は、このようにユー ザーによるシナリオ作成があたり前になることを考えていたのだろうか? まぁ それは分からない。

もっともD&D以降のRPGにおいては、シナリオ数も少なく(D&D、も しくはAD&Dに比べるとと言うべきか)、ユーザーにおけるシナリオ作成は、 もはやRPGを遊ぶための前提となってしまっているように思える。なぜ、ユー ザーにおけるシナリオ作成がRPGを遊ぶための前提条件とまでも言えそうなほ どに受け入れられてしまったのだろうか?

これについて、私は2つの理由が有ると考えている。1つはGMという裁量装 置の存在、そしてもう1つは、シナリオは使い捨てという考えである。

RPGはGMの存在を前提としているという点については、ほぼ異論は無いもの と思う。もちろん例外的なものは存在するが、この際、細かいことにはこだわ らない。GMの何がRPGを成り立たせているのか、これはRPGのシステムとも関わ ることがらであるので、簡単に述べるにとどめる。はやい話、システムやシナ リオがおそまつでも、GMの存在によって適当に遊べてしまうのである。これは 結局GMの持っている知識が、シナリオやシステムの不備を補ってしまうのであ る。まぁ試しに、初心者GMと、慣れたGMで同じシステム、シナリオでセッショ ンを行なってみると良い。GMで遊べてしまうという理由が分かると思う。とも かく、シナリオそのものは不備が有っても、セッション中においてGMの知識に よってそれらの不備を埋められるため、ユーザーによるシナリオ作成が可能と いうか易くなっていると言えると思う

もう1つの「シナリオは使い捨て」という話である。完全に使い捨てとは言 えないものの、少なくとも同じメンバーで、同じシナリオを複数回遊ぶという ことはまず無いのではないか。これはなぜなのか? 単にシナリオの内容は1回 やれば分かってしまうからという単純な問題ではないような気がする。それは、 例えば小説・マンガ・映画等のストーリー・メディアについては、複数回鑑賞 することもある(それが普通とまでは言えないかもしれないが) のに対して考 えると、RPGのシナリオに対して物語性が強く望まれるようになっているにも かかわらずいまだに使い捨てという状況に有るのには、なにか特別な理由が有 るのではないかと思えるのだ。

さて、その理由として私が考えているのは、トリックである。トリックと 言っても、推理小説におけるトリックのようなもののみを指すわけではない。 ここでは、例えばダンジョンの構造、トラップなども含めてトリックと呼ぶ。 これらは、そのシナリオを1回経験してしまえば、言わば種明かしされてしま うような類のものである。つまり、「1回やれば、シナリオの種が全て見えて しまう」という点が、使い捨てを生んでいるのではないかと考えている。これ は、結局現在においてもシナリオの内容はダンジョン探索と本質的に変わって いないということを意味しているのではないか?

まぁ確かに、小説などにしても、1回鑑賞してすぐさまもう一度鑑賞すると いう場合は少ないかもしれない。そしてもう一度鑑賞する場合には、その小説 の細部はかなり忘れてしまっているために、再び面白く鑑賞できるのかもしれ ない。それに対し、RPGのシナリオの場合、かなり時間が経過してからであっ ても、もう一度やることに対してかなりの抵抗が有る。個人的感想も含むが、 周囲からの反応にも抵抗が含まれている。なぜ小説などでは複数回鑑賞できる のか? 私の経験から言えるのは、小説などには上記のようなトリック以外に も鑑賞の対象となるべきものが存在するということだ。もちろん、映画などは かなり短い時間に大量の情報を受け入れることになるために複数回鑑賞しなけ れば全体を味わうことができないという点もあるかもしれない。それに対し RPGの場合であれば、だいたいにおいてセッションにおいて提示される情報は プレイヤーが消化不良を起こさない程度であること、そして自身が参加してい ることなどから1回のセッションにおいてそのシナリオの全体を味わってしまっ たと感じるということも有るだろう。しかもPCは原則的に主人公であるという のも、都合を悪くしている一因ではなかろうか。

私としては、複数回の使用(もちろん同じグループでである)に耐えられる シナリオというのは有りうると思うのだが、具体的にどのようなシナリオなら そうなるのかはどうにも掴めていない。ただ、"神話的"なものになるのではな いかという感じはしている。もちろん、ここで言う"神話的"とは、いわゆる神 話というものではなくて...、えーと、こっち を見てもらうのが良いかもしれません

以上、なぜユーザーによるシナリオ作成があたりまえになっているのか、 その原因と思えるものを2つ考えたわけである。結局「シナリオはトリックが 命であるから1回やったらそれでおしまい。そんなに短寿命のものを、製品と して次々に出すことは不可能である。しかし都合の良いことに、GMの存在によっ てとりあえず時間を潰す程度のものにはなるために、シナリオの質もそれほど 高いものを要求しなくて良い。ならばユーザーが勝手に作るものでも何とかな る」ということから、ユーザーによるシナリオ作成が、セッションの前提と言 えるほどあたりまえになっているのではないだろうか?

一般ユーザーによるシナリオ作成は問題なの?

どうも、前節では「一般ユーザーによるシナリオ作成がセッションの前提 になっていることは問題である」という感じに口調になっていたように思うが、 別に一般ユーザーによるシナリオ作成がセッションの前提になっていることは 問題でもなんでもない。というのも、そこまでシナリオ作成が開放されている ために、グループごとに自分達の要求に有ったセッションで遊べるからだ。

もっともこれが別の問題を引き起こすことも有る。上に書いたことから分 かるように、それはグループ間でのプレイ・スタイルの差異である。というの も、プレイ・スタイルはじかにシナリオと関係するだろう。シナリオはその世 界と、そして世界はシステムと関連が有る。つまり、シナリオはその世界内で の出来事であるのだから、どうしてもそのRPGの世界の影響を受けてしまう(さ てさて、私は別のところでは「汎用シナリオが できるはずだ」とか言っているが、ここの部分と矛盾しないか? 実は矛盾など しないのである。ご安心されたし)。そして、そのRPGのルールは世界と関連が 有る。ここで、ルールがシナリオよりも強いならば問題はおそらく無いものと 思う。しかし、現実にはそうではない。ということは、プレイ・スタイルが違 うということは、世界の解釈からルールの解釈までも異なってくるという可能 性が有るわけである。特に、表現が曖昧な場所などはまっさきに問題になるだ ろう。例えば、ソード・ワールドではドワーフは「暗闇でも目が見える」能力 が有るそうだが、この解釈である。「暗闇」というのを星も月も当然街路灯そ の他いかなる光源も無い場合と解釈するか、それとも月明りもしくは星明り程 度は有ると解釈するのかによってドワーフの能力は全く異なってくる。

さて、そうするとRPGのシステム(世界とルールやデータの全体)というのを どう解釈するかが問題になってくる。つまりオフィシャル指向になるかそうで ないかという選択が待ち構えているわけだ。ともかく、上記のような問題を問 題と見るか、それともRPGとはそういうものであると見るかによって、遊び方 も変わってくるだろう。私などはRPGとは提供されたシステムを基に、使う側 がいじり回すものと考えているので、これまでいわゆるオフィシャル・ワール ドで遊んだことなんか1度も無い(少なくとも私がGMの場合は、だいたいどこか 変更を入れているし)。まぁこの話はまたいずれ別のところでしようと思う。

で話を戻すが、システムの解釈というのは結局遊ぶ人それぞれ、もしくは グループの要求によって揺らぐことが有る。まぁ、その事自体が問題と言えば 問題なのだが、自然言語を使っているかぎり、この問題を完全に解消すること は難しいだろう。まぁ解釈の問題もそうなのが、その他にもグループで遊びた い雰囲気などなどから、結局それぞれのグループにおける解釈や要望に沿った シナリオを用意するのは、ユーザー以外には無理という話になる。もちろん用 意されたシナリオを自分達の味付けで遊ぶことだってできるけどね。

ただし現状では、これはおそらくシナリオ作成の大変さという問題とも関 連してくると思うのだが、質の高いシナリオを遊びたいと思っても、そう簡単 には遊べないという問題が有る。結局アマチュアが作るシナリオはそのほとん どがアマチュアの域を出ているはずもないのだから。そんなわけで、質の高い シナリオを望む場合、GMにさらなる努力を要求するか、シナリオ・ライターに よるシナリオを要求することになる。質が高いという言葉が何を意味するかと いうと、これまた不明確だが、まぁ十二分に楽しめるシナリオということでと りあえず良いだろう。

RPGにおいてシナリオをユーザーが作成するのは避けがたいこととして、問 題でもなんでもない。しかし、より楽しめるシナリオとか、あるいはシナリオ 製作についての一種のノウハウなどを提供するものとして、シナリオ・ライター によるシナリオというものも充分に提供してもらいたいと思うのである。これ は特に日本のデザイナー達に言いたい言葉ということになるだろう。

ところで、あなたはシナリオに何ページ使いますか?

さてさて、シナリオといっても、GMごとにいろいろと特徴が有るでしょう ね。ここで特に考えたいのはシナリオの分量です。えと、シナリオ作成のペー スとかこれまでにいくつ作ったかということではなくて、1つのシナリオに対 して、どれくらい細かく設定や資料を作るかということです。

私が良く聞くのはA4で1〜2ページくらいという話です。もっと短いのにな ると、バイブル・サイズのリフィルで1ページとか、その半分位の大きさのポ スト・イット1枚(もちろん片面のみ)というのも有ります。何でもポスト・イッ トの人が言うには、マスター・スクリーンに貼っておけるのが便利なんだそう で... だったら別にポスト・イット1枚と限らなくても良いようなものですが、 1枚が良いんだと主張されていました。

ちなみに私の場合、だいたいA4で3〜5ページくらいです。私の場合セッショ ン時間はだいたい3〜5時間くらいなんで、1時間1枚と考えても良いかもしれま せん。ただ背景情報とかで1ページくらい使うから、そこまで単純ではないで すね。

で、上に例に挙げたような分量の人は、私のまわりで見るかぎりですが、 皆5時間以上のセッションをする人です(そりゃたまには例外も有りますけどね)。 極端に言ってしまえば、5時間のセッションに必要な情報がすべてバイブル・ サイズの半分のポストイット1枚に書いてあるということになる。これはいく らなんでも無茶が有ると思いませんか?もっとも、虫眼鏡で見ないと読めない ような小さい字(マイク ザ ウィザードの中に出てくるマイクの書いたシナリ オなみの字と言っても良いな)で書いてあるなら話は別ですが、実際にはそん なこともない。普通に読める字で書いてあります。小さめではありましたけど。

ということで、大体言いたいことに目星がついたと思いますが、ここで私 が言いたいのは、『RPGのシナリオとは、どのようなものを言うのだろうか?』 ということです。つまり、A4で1〜2ページ程度では、素直に考えれば、5時間 以上ものセッションに必要な情報が充分に書かれているとは思えません。早い 話、出版社は失念してしまいましたが「RPG 100のシナリオ」という本に書か れているシナリオ+α程度の内容でしょう。それをはたしてシナリオと呼んで 良いのでしょうか?シナリオというよりも単に「設定」と呼ぶ方がふさわしい のではないでしょうか?この話は、ちょいと一本道と も関連してくるので、よければそちらにも目を通してください。

かならずしも的確な比較とは言えないと思いますが、映画におけるシナリ オとはどういうものを言っているのでしょうか?さて、[シナリオ]によれば (もちろん映画などの場合、一般的にはシナリオとは呼ばれず、scriptと呼ば れているが)、

シナリオが、はじめて生まれてくるのは、映画が見世物になり、その内容 が1つの筋(ストーリー)をもつようになった第二の段階です。

さきにもお話ししたように、映画をはじめて見世物にしたのはメリエスで すが、それが例えただ単なる見世物にしても、いつもいつも汽車がついて人が 降りでくるころや、ダンスや浜辺の賑わいなどばかりではいつかはお客は退屈 してみにきてくれなくなってしまいます。お客を退屈させないためには、やは りそこに、1つのストーリーがなければならなかったのです。そのことにいち 早く気づいたメリエスは、一番手近かなやり方として、演劇をまね、映画をで きるだけ演劇に近づけるという方法をえらんだのですた。

彼はこの考えにもとづいて、1つの映画をつくる場合、すべての場を演劇 の場と正確に一致させようとしました。メリエスがつねにセットを使い、綿密 な場面割を守ったのはそのためです。そして、シナリオはこのとき、この場面 割のメモとして、はじめて生まれたと考えられます。1つの筋をもった話を、 いくつかの場面に分けるためには、どうしてもメモが必要だからです。

[[中略]]

このプラトン派はどんな点でメリエスと違っていたかといいますと、たと えばその代表的作家であったウイリアムソンは、1899年、ヘンレイのボート競 漕の様子を映画にしましたが、そのとき彼は、メリエスのようにカメラの視野 を劇場(すなわちセット)という舞台の枠のなかに限りませんでした。彼は、 (1)集まった群衆、(2)ボートの出発、(3)漕いでいるボート選手、(4)移動撮影 による、船からみた見物人たち..... などを次々に写し、最後に優勝者の到 着をみせるというやり方をとったのでした。これは、バラバラにとった事実の 実写を、一定の方向に配列することによって一つの筋をまとめあげたもので、 いわゆるモンダージュの手法をつくりだしたものといえます。従ってこの場合 のシナリオは、メリエスのように場面割のメモといった形ではなく、バラバラ の断片を1つの筋にまとめあげるための全体の構想についての下書きだったと 考えられます。そしてこの点でウイリアムソンのシナリオは、メリエスのそれ よりも、たしかに一歩進んでいたと言えるでしょう。

というふうになります。もちろん、さらにセリフだとかなんとかというよ うな要素も入ってきて、現代のシナリオになっているわけです。

で私がこれを読んで思うのは、RPGのシナリオというのは言わばメリエス の方法によるものではないでしょうか?つまり、メリエスの方法をRPGのシナ リオに当てはめてみると、いわばイベント(シーン)毎のメモを用意しておく方 法であると思うのです。もちろんRPGの場合は映画と違い、一定方向にセッショ ンんが進むわけではありませんが、とりあえずの比較としては言えると思いま す。一方ウイリアムスの方法は、私にとってはどちらかと言うと、どのように 描写するかなどのようなマスタリング・テクニックに含まれるような気がしま す。

これまで市販されたシナリオというのは、だいたいにおいてメリエスの方 法に対応したような形式で書かれていると思います。しかし、現実にユーザー が作るシナリオはどのようなものでしょうか?もちろん例えばNifty serveの FRPGのシナリオ・ブラウザ会議室などで公開するシナリオではなく、個人的に 使うのみの場合です。はたしてシーン毎にもメモを用意しているでしょうか? 先に挙げた例であれば、とてもそんな分量を含んでいるとは思えません。

もちろん映画のシナリオをまねするべきであるとは言いません。しかし、 その根幹にある考え方というか、必要性というものは同じでしょう。つまり、 シーンとかイベント毎に、そこで何が起こったり、どういう人がどういう行動 をしたりという記述は、シナリオにとって最低限必要な部分と言えるのではな いかと思うのです。もっともここで、RPG特有の「プレイヤーはどう動くか分 からない」という問題が頭をもたげてくるのですが....これはマスタリングに ついての話のところで書きましょう。

さて、ダンジョン探索の場合でれば、まずマップそのもので1枚くらいは 使い、その中もしくは別ページに、トラップなどの説明を書く事になるでしょ う。現在一般に行なわれていると思われるシティー・アドベンチャーなどを考 えると、このような冒険が行なわれるフィールド(アドベンチャー・フィール ド)のマップに加えて、人の反応なども加えられる必要が有るわけで、どう考 えてもダンジョン探索の場合以上に、シナリオの分量は多くなければならない はずです。にもかかわらず、どうしてポストイット1枚などという話が出てく るのでしょうか?

というわけで考えてみると、RPGのシナリオの多くは、そのセッションに おける設定(ある事件が起こり、その真相と秘密など) のみではないでしょう か? 正直な話、シナリオの記述量が減ると、セッションにおいてGMのアドリ ブがより多く要求されるでしょう。言ってしまえば、GMの行動に場あたり的な 要素が多く含まれるようになってくるということです。もちろん、これも考え 方(もしくは遊び方)しだいなのですが、セッションの質というものを考えた場 合、場あたり的な要素が多く含まれると、質そのものもあまり高くはならない ような気がします。セッションの質については、また別の場所で書きたいと思 います。で、この設定をシナリオと呼ぶというのは、いわゆる現在のRPGにお ける潮流の主流の1つであるストーリー指向と矛盾してはいないでしょうか? つまり、多くのGMが、ストーリー性というものを、「設定(真相と秘密)の劇的 要素」のみであると考えているではないかと思うのです。しかし、それはストー リー性の一部でしかありませんし、また上の方で言った「トリック」の問題と も関連しているのでしょう。

現在のシナリオの形式として、セッションにおける設定のみを書いておく 形式が一般的であるとします。しかし、それはGMの行動に場あたり的な要素が 多く含まれてきてしまうことを意味します。さらにストーリー性の非常に限定 された一部しかそこには含まれていません。ではどうしたら良いのでしょう? 1つの方法は、原点に立ち帰る方法があるでしょう。つまり、マップに、その 場所で発生するイベントを書き込んでいくという方法です。もっともこの場合、 マップと言ってもダンジョンの構造のような、地図そのものとは限らなくて良 いでしょう。ちょっと抽象化して、だいたいの位置関係にしたがって書けば充 分かもしれません。そして、そのマップのそれぞれの場所に、そこに誰がいる のか、そこで何が起こるのかなどをちゃんと書いておけば良いわけです。もっ ともこの方法でストーリー性を重視したシナリオを作るのはちょっと大変かも しれません。まず始めにストーリー・ラインを考え、後にそれをマップに張り 付けていくという2段階の作業になりますから。

もっとも、ここで私は「シナリオというからには、もっと多くの記述をす るべきだ!」と言おうとしているわけではありません。「RPGのシナリオとは、 いわゆる設定のことである」と考えるならばそれで構わないからです。

はたしてRPGのシナリオとはどうあるべきなのでしょうか?

一本道

えと、今度は一本道シナリオについて考えたいと思います。まず、一本道 シナリオの何がいけないのでしょうか?前の方で、 シナリオの記述量についてちょっと書いていますが、じつはこの問題とシ ナリオの記述量の問題が関連するのです。もちろん、じかに関連するわけでは ありません。しかし「風が吹けば桶屋がもうかる」的に関連が出てくる...と いうか関連を見つけ出すこともできるのです。

さて、では一本道シナリオのなにがいけないのでしょうか?いや、そもそ も一本道シナリオとはどういうものなのでしょうか?セッションの結果は常に 一本道なのですから、シナリオとして一本のストーリー・ラインなりプロット しか考えていないというのは、必ずしもそのまま問題の有る一本道シナリオと は言えないでしょう。いや、そもそも一本道シナリオは問題なのでしょうか?

そもそもハイパー・テキストのように、あっちこっちで分岐が有るような 文章を、最初からきちんと記述できるとは思いません。しかも、ダンジョン探 索シナリオ程度ならいざしらず、現在のシティー・アドベンチャーにおいては、 どこでいくつに分岐するのかすら明確ではありません。とすれば、結局有りう る状況をシナリオに記述しておくことは不可能とまでは言わずとも、かなり難 しいということになります。もっとも、場所を基準としたシナリオ記述法とか を使えば(つまり、現在のシナリオをダンジョン探索におけるシナリオと同様 の方法、つまりはマップにイベントなどを書き込む方法で書いてしまうという ことです。上にも書いてあります)、かなり書きやすくはなるのではないかと 思いますが、その場所自体、主要な場所を書くのがせいいっぱいということに なるでしょう。

さて、というように、そもそもPCのとりうる行動を全て前持って考えてお くことには無理が有るということが分かります(もちろん、主要な選択肢を考 えておくことはできるということを否定するわけではありません)。ここで、2 つの選択肢が有ります。1つは、そもそもストーリー・ラインを考えないよう にするという方法、そしてもう一つは、いわゆる一本道シナリオにするという 方法です。

ストーリー・ラインを考えないと言っても、まったく考えないわけにはい きません。この方法はイベントを時間軸にそって配置するというシナリオが多 いと思いますが、それにしても後に起こるイベントは先に起こるイベントの結 果を考慮に入れないわけにはいかないのですから。あるいは、「発端」とその 他のいくつかの事柄のみを決めて起き、話の進展はプレイヤーの行動にまかせ るという方法も有るには有ります。つまりアドリブ・マスタリングというわけ です。これはこれで問題が有るのですが、その問題の話はまた別のところで。

で、もう一つの方法が一本道シナリオにするという方法で、これがここで 考えようとしているものです。そもそもセッションの結果は常に一本道です。 つまり言ってしまえば(またそれが可能ならば)、GMは一本のストーリー・ライ ンを作り、それに従ってセッションを行なえば良いことになります。もっとも、 それがなかなかできないのですが。しかし、私の経験から言えば、プレイヤー の性向を知っているならば、かなりの程度で一本道シナリオを書けるはずです。 多少、その一本道から外れることはありますが、もとの道に軌動修正できるも のです。

さて、ここいらで、記述量と一本道との関連について話を戻しましょう。 まず、一本道シナリオということは、すくなくともその言葉の中には、「ストー リー・ラインが決定されている」という意味あいが含まれています。つまり、 強い意味でのストーリー指向とだきあわせの形で、一本道シナリオという言葉 は理解されているものと思います。言ってしまえば、そのセッションはGMの作っ たストーリーを追認するだけのセッションということになるでしょう。で、ス トーリー・ラインが決定されているということは、ある程度の量の記述が必要 になります。実はここで誤解が生まれているのではないかと私は考えているの です。つまり、「一本道シナリオは良くない = ストーリー・ラインを先に決 めておくのは良くない」という理解から、「ストーリーはセッションで作られ るものであり、GMがシナリオにおいて決めておくものではない」という理解、 そして「シナリオとは、設定(何が起こるのか、その原因は、問題の解決方法 など) のみを記述するものである」という考えを通して、「シナリオの記述量 は少ない方が良い(というか最小限の事柄のみにすべきである)」という誤解が 生まれているのではないでしょうか。実際、と言ってもほんの数人程度ですが、 一本道を嫌う人の作るシナリオは概して短く、ほとんど設定のみでした。

もちろん、その考え方自体を否定する必要は有りません。また、「シナリ オは使い捨て」という考えから、シナリオは覚えておき、要点のみメモしてお けば良いという人がいることも事実です。しかし、「どうもおかしい」と感じ るのは、「ストーリー指向」にはまっている人の中にさえ、「GMがシナリオに おいてストーリー・ラインを決めておくのに反対する人」がいることです。仮 にストーリー指向のセッションを行なうのならば、その裏にはある程度はしっ かりと練られたシナリオが有り、そしてセッションの進行を支える必要が有る はずです。もちろん、GMが超人的な物語作成能力を持っているのならば別です が。

さて、先に「ストーリー・ラインからはずれても軌動修正できる」と言い ましたが、とすると、少なくとも一本道シナリオそのものが問題というわけで はないということになります。ここで、私の知り合いの中で言われている言葉 が有ります。「一本道シナリオが問題なのではない。プレイヤーに一本道と気 付かれることが問題なのだ。」これはあたりまえの事です。気付かれさえしな ければシナリオが一本のストーリー・ラインしか持っていないことなど分かる はずもないからです。

つまり、「一本道シナリオの問題」と言われているのは、実は「マスタリ ングの問題である」ということです。一本道シナリオ多いに結構ではないです か。なにしろ作るのが楽です。ただし、忘れてはいけないのは、そのシナリオ に固執せず、柔軟に、もとのストーリー・ラインへと軌動修正するということ です。