そもそも、RPGにおけるシナリオとはいったい何なのでしょうか? 演劇におけるシナリオでは、情景説明もセリフもきっちりと決まっています。 さらには、登場人物 の心理状態もしくはその表現まで指定されている場合もあるでしょう。 まぁ、その他、いくつかの点については、 【シナリオとは?】で触れていますので、 よろしければそちらも見てください。
しかし、RPGでの シナリオは、 そうは行きません。 なにしろ、主要登場人物であるPCは、すべてプレイヤーの手の内にあり、 セッションの進行をつかさどるGMには手が出せない部分があるからです。 物語行為としてのセッションがどう展開して行くかも、 ましてやPCが何と言うか、PCやあるいはプレイヤーがどのように感じるかは、 GMの手からは離れてしまっています (まるっきり手が出せないというわけではありませんが、GMの制御下に あるわけではないのです)。
そうして考えてみると、RPG の シナリオとは物語の骨格に過ぎないのではないでしょうか? もちろん、その骨格すら、 プレイヤーの手によって歪められてしまうかもしれませんが (例えば【ギャグ・シフト現象】など)。 とりあえず、RPG におけるシナリオとは物語の骨格であり、 セッションにおいて肉付けされるのを待っているものだと考えます。 つまり、はっきり言ってしまえば、RPGのシナリオとは一般に言われるような 物語ではなく、プロット・ラインにすぎないということです。 このあたりのことについては、【本論の前に】で 述べています。
さて、物語を創るといえば、小説や映画などもやはり物語を創りだす作業です。 しかし、RPGのシナリオと小説などとでは大きな違いがいくつかあります。 その違いを列挙してみると次のようになるでしょう。
だいたいこれくらいでしょうか? 以下では、このそれぞれについて考えて行きたいと思います。
言うまでもなく、RPGにはGMとプレイヤーという2種類の参加者がいます。 そして、 シナリオあるいは物語が実際にどのように肉付けされて行くかは、基本的にセッショ ンにおけるプレイヤーの行動次第です。 そして、プレイヤーはそのシナリオや物語が どのような筋立てになっているのかを知りません。 つまり、GMによって基本的な筋立 ては用意されるものの、その筋立てに沿って話が進むとは限らないのです。 それゆえに、RPGでの物語を細部まで決定的なものとして作成することは 不可能であり、 また無意味なのです。
しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、RPG における物語を決定的な 物語とはできないが、プレイヤー達の行動を予測、もしくは制限し、事実上決 定的な物語に近づけることはできるということです。 (ここで言う「決定的」とは、「一本道」というような意味だと思ってください。)
一般には、「一本道シナリオ」は悪いものだと考えられているようですが、 GMの立場から言えば「一本道シナリオ」で済むならそれにこしたことはありません。 だいたい、プレイヤーにしてみれば、本来ならばシナリオが一本道であるかどうかは 分からないはずです。問題が有るとすれば、プレイヤーに一本道シナリオであると 勘づかれてしまうことなのです。 ですから、一本道シナリオが良い悪いという問題は、本来シナリオ作成における 問題ではなくマスタリング・テクニックの問題なのです。
ちょっと話がずれましたが、上で言った「細部」というのは、 あくまでストーリー・ラインに関しての話 であり、そのストーリー・ラインの基盤となるような様々な設定、 あるいは世界についての様々な設定は別の問題です。
小説には、主人公の一人称によって物語が進むものが有ります。 しかしRPG の場合では、そのような手法は原則的に使えません。
「GMとプレイヤーが1対1で行うセッションならどうか?」という疑問も 出て来るかもしれません。 しかし、 プレイヤーの人数はこの問題とは無関係なのです(えーと、そりゃ、 プレイヤーが2人以上の場合と1人の場合とでは状況が変わりますから、 無関係とは言いきれないかもしれまえんが、そういう話ではなく、 人数とは別の問題が有るということです)。 つまり先の「物語の不確定性」と関連するのですが、 RPGの物語ではプレイヤーが何を考え、どのように行動するかはプレイヤー次第であり、 GMは手を出せないからです。 もちろん、プレイヤーの行動を予測、制限することは可能ですが、 それはあくまで行動面に関する話であって、一人称小説に描かれるような 主人公の心理面までを予測、制限することは非常に困難なのです (大雑把なところは、もちろん可能ですけどね)。 そして、「私」を主人公とする小説などでは、心理面まで含めての 描写が有るのが一般的だからです(ハードボイルド系の小説であっても、 主人公の心理面はその行動で表現されているのが普通ですから)。
つまり、仮にプレイヤーが1人の場合でも、物語は(シナリオ上は)必ず三人称、 もしくは二人称の形で創られねばならないのです。 シナリオ上の文面としては「私」という言葉を使えるかもしれませんが、 それは実際には二人称もしくは三人称と考えるべきものと言えるでしょう。 というのも、GMはプレイヤーではなく、 そのためPCの感情などを含めた反応を決めておくことはできないからです。
もちろん、小説における「私」と、小説の作者も同一人物ではありません。 しかし、小説における「私」は、それが例え不完全なものでっても 作者の制御化にあります。 この、「作者の制御化にある」ということは、 GMがプレイヤーの反応を予想したり、制限するのとは 根本的に違うことなのです。
小説における「私」は、あくまで作者の中の人物像であるため、 仮に「私」が作者の思惑から外れて動きだすことが有ったとしても それはあくまで作者内での行動にすぎません。 それに対し、RPGにおけるPCはGM外の人物であるプレイヤー内の人物像であり、 はじめからGMの外にある存在なのです。
例外としては、プレイヤー自らが様々な描写を行なう場合が考えられます。 とは言うものの、これも、単に個人の感情などを描写するというだけですめば 良いのですが、 おそらく実際にはそれだけではすまないでしょう。 というのも、PCの反応は感情も含めて周囲の状況に依存しているからです。 そうなると本来GMの両分であるNPCやイベントの詳細までを描写せざるを えなくなります。 すると、物語の進展にまでプレイヤーが手を出すことになってしまいます。 するとGMの用意した物語との矛盾を起こす可能性が大きいわけで、 これは大問題になってしまいます。
GMとプレイヤーの協議によってセッションを進めることも可能ですが、 その場合はたしてシナリオを用意できるのか、 あるいは少なくともこの文章を書く上で私が想定しているような シナリオが成立するのかどうかはかなり微妙な問題になります。
更にRPGのシナリオでは、 小説などで用いられるある種の劇的効果の演出を 行うのは一種の賭けとなります。 その演出の例としては、「心理的に追い詰められて行く」ようなものが 挙げられるでしょう。 つまり大体において、次第次第にゆっくりと盛り上がって行くタイプの物語は 難しいのです。 もちろん、これはマスタリング・テクニックに大きく依存しますが。
言い換えるならば、RPG の物語における劇的効果は、プレイヤーに対して 明示的に提示される方が良いということです。 繰り返しになりますが、RPGの物語では登場人物が何を考え、 どのように行動するかは プレイヤー任せです。 そのため、劇的効果を演出するためには、つまりプレイヤーの心理面 になんらかの影響を与えようとするならば、 プレイヤーに明確に分かるようなお膳立てや舞台装置を 用意しなければならないのです。
また、「ジェットコースター・ムービー」的な演出も、RPG では実現が難しい 劇的効果の1つです。 ジェットコースター・ムービーと言えば、 ハラハラドキドキの連続する映画です。 中には5分に一度は ハラハラドキドキなどと宣伝していたものも有ったと思います。
さて、このタイプがなぜRPGに向かないのかを考えてみましょう。 例えば10分に1回の山場が設定されていたとします。 プレイヤーはその勢いについて来れるでしょうか? おそらく無理でしょう。
映画の場合、観客はあくまで受動的な立場にいます (完全に受動的かというと 必ずしもそうではなく、自分の中で物語の解釈および再構築という能動的な行為を 行なっているという解釈というか理論というかも存在します)。 しかしRPGの場合、プレイヤーはかなり能動的な立場にいます。 10分に1度の山場というと、仮にセッションを2時間とすれば12回もの 山場が連続するわけです。 これでは、プレイヤーには、気を抜く暇も無いでしょう。 また現実的に、それだけの緊張を演出するだけのシナリオを用意できるかという 問題も有りますが。
あるいは、ゲーム内時間で10分に 1回 と考えると、セッションにかかる時間が予定時間を大幅に 超えてしまうかもしれません。 あるいは、非常に長いセッション時間を想定しなければならないでしょう。
いずれにせよ、GMとプレイヤーの両方にとって精神的、 および肉体的な負担がかかり過ぎるのです。
セッションの時間が長引くこと自体も問題です。 プレイヤーの集中力が落ち、ダラダラとしたセッションになりかねません。 だいたい 3時間程度が限界であると考えるべきでしょう。 ですから、RPGの物語においては、 あまりに数多くの山場を物語に盛り込むこ とも避けなければなりません。
更に、推理小説やあるいはその手のテレビ番組なんかだと、 終りあたりになって「実は...」なんて言って、これまでまったくその 存在を匂わせて さえいなかった事柄を唐突に明かすなんてことも許され、 それによって「そうだったのかぁ!」なんていう演出が行なわれることが 有ります。 しかし、考えてみてください。それを目の前でやられたらあなたなら 頭に来ませんか? もちろん、プレイヤーのミスで、その情報に 行きあたれなかったのならばともかく、そうではなく、 いわゆる推理小説風の「実は」が 行なわれた場合です。私だったらそのGMをタコ殴りにするくらい 怒りますがね。
あぁ、言うまでもなく、私は推理小説が大嫌いです。 あんなもの何の価値もない、ただのクズ、紙やインクやエネルギーの 無駄使いです。 環境問題が云々されている現在、推理小説を書いている人も、 それを発行している会社も、それを買っている人も、 自分を犯罪者だと認識するべきでしょう。
それはともかく、確かに「実は...」というのもまったく使い道が無い わけでもなく、うまく使えば劇的な効果をそれこそ効果的に挙げることも可能です。 これについては【劇的な状況】の [意外性]で触れたいと 思います。
小説や映画などでは、主人公以外の者 (例えば主人公に敵対する者達) についても 描かれ、読者や観客に提示されます。 しかし、RPGにおいては、PC達にはPC の周辺での出来事しか描写されません。 これはあたりまえと言えばあたりまえなのですが、RPG はあくまで PCの視点でセッションが進行しているためです。 あー進行していくというか、プレイヤーはPCを通してその世界を覗き 見ているわけですから、PCが見えないものはプレイヤーにも見えないわけです。 そのために、映画や小説では可能な、主人公の周囲以外への場面の転換が、 RPGにおいては不可能なのです。
これについては解決策もあると思います。 現在のRPGではPCはある特定の グループを受け持つようになっています (例えば、正義の味方とか)。 しかし、PCが複数の立場を受け持ってもいいはずです。 現在ではGMが受け持っているグループ (例えば、悪者) も PCのグループの1つとして、 PCの2つのグループが参加するような遊び方も可能なはずです。 そのような場合、プレイヤーは全体の情報を知ること が可能になり、映画や小説などにより近くなるかもしれません。
ただし、ある特定のグループ側のPCが知らないはずの情報を そのプレイヤーが知ってしまうという問題もあります。 しかし、このようなPCの記憶とプレイヤーの記憶をしっかりと 区別できるようなプレイヤーを相手にするセッションであれば、 通常のセッションと同じで、ただしPCの周囲以外で起こっていることがらの 描写も行なうというセッションも行なえるでしょう。
いずれにせよ、PCの周囲しか描写できないというのはどうしようもないことです。 上に挙げた以外の解決策 (もちろんそれにも問題が有るわけですが) というのは 無いと思います。 もちろん、PCは依然として例えば正義の味方のみで、相手側の行動などを 全てGMが述べるということも有りますが、 こうなると、全情報がプレイヤーに知られるという上記の問題に加えて、 GMが相手側の描写をしているあいだプレイヤー全員が、それを聞かなければ ならなくなり、へたをすると皆、飽きてしまう可能性が有るという問題が 加わってしまいます。 まぁ、GMの描写能力が飛び抜けていれば、回避できる問題でしょうけど...。
ともかく、繰り返しになりますが、プレイヤー達に対してはPC達の周辺以外での 出来事を提示することも 原理的には可能ですから、プレイヤーの記憶とPCとの記憶をきちんと 区別できるプレイヤーのみが参加するセッションであれば、 小説や映画などと同様にPC以外の者についても描写することが可能でしょう。 ただし、PCの記憶とプレイヤーの記憶をきちんと区別できる プレイヤー自体が稀であるため、そのようなセッションは 現実的にはほぼ不可能と言ってかまわないでしょう。
しかし、逆に言えば、PCを通してしかゲーム世界に入れないがゆえの緊張をかもし 出すことも可能になるわけです。 例えば、PCに敵対する者の行動を考えてみましょう。 映画や小説などでは、一人称展開でない限り、主人公の行動も敵対者の 行動も観客や読者に提示されます。 もちろん、作品内の主人公にとっては敵対者がどのような行動を取って来 るのかは分からないのですが、読者にとっては分かるわけです。
すると、読者は
「あ〜、敵対者はこうして来る。これを主人公はどう乗り越えるのだろう?」
という緊張と期待を持つわけです。 それに対して、RPGでは プレイヤーには敵対者が次にどのような行動を取って 来るのかが分からない。するとプレイヤーは、
「次はどんな手で来るんだ?」
という緊張や期待、そして不安を持つわけです。
問題を、次の場面への引きということに限定すれば、PCの周囲以外を描写するこ とが不可能であっても、別の解決策が有ります。 つまり、次の出来事への予感を感じさせるものをPCの目の前に提示すれば良いのです。 例えば、相手側の捨て台詞、相手が仕掛けた罠などの発見、密告、噂話などなどを 駆使することによって可能となるでしょう。 これによって、プレイヤーも次の出来事への予測と期待と緊張を持ち、 つまりは次に起こる出来事に対して先手を打てる可能性があるということです。
さて、こうやって考えて来ると、RPG の物語を作成するのは非常に難しいように 思われます。 しかも、その難しさはすべて「プレイヤーの存在」に起因しているように思われます。 このような状況にも関らず、GM は物語を作り得るものなのでしょうか?
答えは明らかにYesです。 何せ、実際に行われているわけですから…^^)。 ただ、この点に関連していると思われるのですが、RPGはだいたいにおいて 特定のグループ内で遊ばれているということが有ります。 RPGでもコンベンションはもちろん行なわれていますが、 コンベンションで行なわれるセッション数よりも、 それぞれのプレイヤーが属しているサークルなどで遊ばれるセッション数のほうが はるかに多いものと思います。 これは、シナリオの作り易さの問題が関係するものと思います。 つまり、知り合いをプレイヤーとして迎える場合のほうが、 プレイヤーの反応や好みなどを予想しやすく、 それに応じたシナリオを作りやすいと思うのです。 これが、RPGの強味でもあり、また同時に弱点とも言えると思いますが、 そのことについては、またいずれ書きたいと思います。
とりあえず、これまでのことをまとめて、しかもRPG のシナリオを創る際の注意点を 列挙してみましょう。
その他にも、物語を大まかにしか作成しないという方法も考えられま す。 また、プレイヤーの行動を予測、制限し、決定的な物語に近づけられる ことを忘れてはいけません。